ぼくのあしあとを顧みるシリーズ

これまでの人生を振り返って、あれやこれや思うところを綴って参ります。

03 「無能」と言われ続けたからこそ見えてきた「無能」との折り合いのつけ方

~応援団を顧みるシリーズ vol.3~

1.はじめに ~皆さんは他人からの評価をどの程度気にしますか~

 なんということでしょう。仙台に居を構えてから4度目の誕生日がやってきました。学年がなかなか増えないのは何かのバグでしょうが、それにしても歳が4つも増えるというのもなかなかにバグじみた現実です。前回の記事で「応援団に入ったわけ」みたいなものを綴りましたが、あれから4年も経つことを考えると感慨もひとしおです。どうせ増えるなら、歳の代わりに学年か取得単位数でも増えていってほしいものです。まったく世知辛い世の中であります。こういうのを自業自得とか責任転嫁とかいうのでしょうね。世間というバチバチに他者フィールドのそれに責任を転嫁したところで結果はたかが知れていますが…。

 そういえば、無駄に歳の数を増やしている間に増えていることに気づかされたものがあります。「他者からの評価」と「他者からの評価を気にする自分」です。大学生となり、大人(形式上は20歳で成人ですからね…)になり、社会に露出する頻度が増えた私は、少なからず色々な角度から様々なタイミングで多くの方々に「評価」されてきました。その内容を一から十まで暴露しだしたらそれこそキリがありませんからここでは避けますが、その中でも特に気になった「応援団現役時代に同コミュニティ内で受けた評価」について今回は綴っていこうと思います。少なくとも、こうして文章に昇華されるくらいには気になっていた、ということですね。それがタイトルにもある通り「無能」という評価です。今考えると「無能」っていう評価、ざっくりしすぎていて面白いですよね。こう、言い方次第捉え方次第というか…。したがって、「なんで無能っていう評価されたの⁉」というところを掘ってもあまり面白いコンテンツにはならなそうなので、ここはひとつ「私が無能と評価されて考えたこと」をベースに「他人からの評価」について、色々とコンテンツ化してや…りつつ、それでも最後には「無能」という評価の真髄を貪ってやろうと思います。(自己満)こうやって煮るなり焼くなり好きにできるというのは自分の体験したことだからこそできることですので、やはり多種多様な経験はそれそのものが人生を豊かにしてくれるフレーバーたり得るのだろうと思案しつつ本編へ移らう文章の流れをぼんやり眺めては夜が更けていく今日この頃(以下略

2.「他人からの評価が気になる」のには理由がある

 私事ですが、つい先日メンタルブレイクする羽目になりました。端的にその理由を申し上げますと「職場の先輩に痛いところをつかれた」からです。時として私たち人間は、自分が触れてほしくなかったり、あるいは意図せず自身の内に隠していたりするそれを、外界から指摘されることがあります。そんな時、我々はきまって平静を保っているのが難しくなります。あるものは怒り、あるものは泣き、あるものは発狂して我を失います。さて、それはなぜでしょう。理由は簡単で、「自分にとって都合が悪いことだから」です。もっとオブラートに包むと「嫌なことが起こった」とか「バツが悪い」、「きまりが悪い」などと言い換えることもできます。もう少し丁寧に言い換えると「自分にとっての不可侵領域の絶対防衛線を他人に破られた」ということになります。これが他人から「そのような」評価を受けたときに平静を乱してしまう理由です。裏を返すと他人から受けた評価がどの程度であれ気になるとき、それは「評価の内容が自身にとって何か意味がある」ということを指していると考えられます。すなわち「さては図星だな?」と言われるシチュエーションのそれです。(伝われ)今回の題材を扱うにあたって、以上の考え方をまずは皆さんにお伝えしておきたく、本章を立てさせて頂きました。

 そんなわけで、私が「無能」という他者からの評価に対して「気になった」意味というのが「自分が無能であることを他人に気づかれないように生活しているのに、それがばれちゃった汗」といったようなものでした。自分で無能と書くとひどく曖昧なので自身の内面をもう少し具体的に表現するとすれば「数ある劣等感を他人に感づかれたくない」といったところになります。「劣等感」という単語を用いましたが、誰もが持つであろうこの「劣等感」を私は特に重く感じる傾向にあります。厳密に「こうだから」という理由を提示することはできませんが、確かに「劣等感」というものに対して非常に敏感でそれを普通よりも重くとらえているという自覚があるのです。(蛇足)その為、「体裁」を特に気にする私にとって「無能」という評価は非常に厳しい評価でありました。しかもそういった評価をされるときには決まって「自分では隠しているつもりだけれどこっちからしたら全部お見通しだぜ」といったニュアンスが含まれておりましたから、その時の自身のダメージといったらまったく酷いものでございました。それこそ発狂ものでしたね。大袈裟ですけれども。こんな感じで、「無能」という評価は私にとって相当意味深い存在であったわけです。

 3.「無能」という評価が気になったもう一つの外面的な理由

 さて、いつになく分かりづらい文章になってしまっていると自覚しつつ、もう少しそれを続けさせていただくわけにはいかないでしょうか。(何と言われようと書き進めるのですけれども…。)私が「無能」という評価を気にしたのにはもう一つ理由があります。それが応援団に関係しているのですが(応援団って打ったの一時間ぶりくらいですね…)、当時の私にとって応援団の活動というのは、私の大学生活のほぼ100%を占めていました。もちろん時間的なことで言えば一日の一部分の活動であったことは言うまでもありませんが、精神的というか気持ちの上では、もう本当に応援団が自身のすべてみたいなところがあったのです。改めてこういう書き方をすると非常に気持ちが悪くもなりますが事実そういう気持ちの悪い考え方をしていたと思います。そんな私にとって、自身の全てを懸けている団体における「無能」という評価は私にとっては受け取りがたいものだったのです。端的に言えばそう、「私は応援団においては有能でなくてはいけなかった」んです。(鳥肌)だから「無能」という評価が気になったんです。気になったなんてものじゃないですね、はずかしすぎておろかしすぎてしにたくなりました。これが別なフィールドにおける評価だったらここまで気になることはなかったと思います。いくら大学の教授から無能だと罵られようが、アルバイトの管理責任者に無能だと判を押されようが、さして気にはならなかったでしょう。(それはそれで問題である気がしますが。)自分が一番大事に思っているフィールドでの評価であったからこそ、ここまで自分の中でここまで響いたのだと思います。

 4.「無能」というレッテルを貼られた私は何をしたのか

 2章分も「他人からの評価」というトピックを深めるために使ってしまいましたが、今回のメイントピックは「無能」についてです。ということで、そろそろこの評価の中身についてコンテンツを深めていこうと思います。「無能」という評価を下された私が次にとった行動はどんなものだったでしょうか。簡単です。無能であることをやめようとしました。結果から言いましょう。そんなことできるわけがありませんでした。考えてみればわかりそうなものです。これまで生きてきてそれが容易に克服することのできない欠点であるからこそ、それをひた隠しにして生きてきたのですから。他人に気づかれたからといってそれが簡単に治ったら世話ありません。さて、では次に私がやったことは何でしょうか。不可侵領域の防衛線を強化しようとしました。もっと上手に「無能」であることを隠そうとしたわけですね。結果から言いましょう。そんなことできるわけがありませんでした。無能な人間がそれを隠そうとしたところでそのクオリティなどたかが知れています。本当の意味で有能な方にかかればそんな偽装などすぐにばれてしまうことでしょう。かえって片腹痛いかもわかりません。こんな風にさらっと書いていますがこれに気が付くこと苦節2年程でしょうか。その間ずっと私は無能であることを外界にさらけ出し続ける哀れで愚かしいやつでした。嗚呼まったくはずかしすぎておろかしすぎてしにたくなったことは言うまでもありません。(n回目。)

 さて、そうこうしているうちに私は「無能」についていろいろと考えさせられることになりました。考えざるを得ませんでした。今まで見て見ぬふりをしてきた自分の汚点とも言うべきそれを、もうこれ以上は無視して生活していくことはできないと感じ、それともっと真摯に向き合っていく必要性を感じたのです。そうしないと、私は私自身が納得する形で応援団の中で活動することはできませんでした。もちろん無能と有能との間にひかれる線の基準はひどく曖昧ながら、いつまでたっても向こう側に行くことができないほどその壁は非常に高く、そして私にはよく見えない存在でありました。しかしながらだからといって何もしなくていいというわけではないと当時の無能な私は思ったわけです。まったく今思えば実に無能な奴が考えそうなやり方です。後に無能は無能なりに、とか考えることになりますが、まったく本当に文章に起こしてみるとその愚かしさがわかるというものです。しかしこれを書いている今でもどうすることが正解なのかわからないわたしは結局、無能の枠から抜け出すことはできず、そして正解を見出すことが正しいとか考えている時点でまったく愚かしいことこの上ありませんが、とにもかくにも私は無能でありながら、その無能ということがどういうことなのか考えはじめ、そして自分なりにその評価に対する自身の折り合いのつけ方を徐々に確立することになったのでした。

 5.「無能」という評価が私にもたらしたものとは?

 さて、そろそろ本論をまとめにかからなければなりません。結局のところ、私がこの「無能」という評価について考えたことは至ってシンプルで、「無能」であることを良しとせず「無能」である自分を維持しましょう、といった感じでした。バチバチに自己防衛に走ったんですよね。自分が有能であろうとすればするほど、無能という他己評価ってめちゃくちゃ堪えるじゃないですか。だから、自分は無能であり続けようとしたんです、体裁的に。体裁を保つ為に無能であり続けようと思ったんですよね。こうすることで「無能」という評価による自身へのダメージをできるだけ軽くしてやろうと目論んだわけです。効果は上々、ほぼ期待していた通りの結果をはじき出してくれました。やはり人間、一番大事なのは自我の維持、であるならば物事は都合よく解釈し、自身に反映させないと身が持たないというものです。

 閑話休題みたくなってしまいますが世の中には4つのタイプの人間がいると言われているのをご存じでしょうか。賢くみえて実際賢い奴、賢いふりする馬鹿な奴、馬鹿なふりする賢い奴、馬鹿にみえて実際馬鹿な奴ですね。で、やはり「馬鹿なふりして賢い奴」というのが一番厄介なわけでして、これはもう人間として高次元の活動を可としていると言わざるを得ません。まったく尊敬してやまない存在ですよね。では前述の私はどこに区分されるでしょう。なんと「馬鹿なふりする実際馬鹿な奴」なんですよね。愚かの極み…。ただこれ、ただ愚かなだけではなくて馬鹿が馬鹿なふりをするということで「馬鹿が馬鹿を自覚している」という重要なポイントが隠されているんです。これが「無能」であることを良しとせずに「無能」であり続ける、の真意です。実はこれが私にとって「無能であるという評価を受けた一番の収穫」でありまして、「無能」である、ということを以前にも増して具体的に鮮明に自覚することができたわけです。無能と評価された回数は数え切れず、そのたびに自分のどんなところが「無能」であるのか、どうして外から見たときに「無能」と評価されるのか、判例と共に何度も学ぶことができたのです。それを踏まえて自己防衛に走ったのですから「自分の中で無能である点は日々自覚しつつ、その上で体裁的には無能であり続けた」ということなんですね。いやぁ、文章に起こすとなんとも滑稽なことをしていてまったく泣けてきます。

そんなこんなで結局私は「体裁」を第一にロジックを組み、自己防衛に走ったのでした。本当に文章に起こすとみじめなものですが、評価の内容をできる限り自身にフィードバックした上で結論を出したという点で、こういった結論を出したことにはそれなりに意味があると思っています。無能であることを自覚したうえで体裁を保つためだけに無能であり続け、且つ自身の中では無能であることを良しとしないって本当に悲惨ですから。まああんまりこの辺を詰めてしまうと体裁が保てなくなってしまうのでこの辺でやめましょう。なんか、何を書きたくて今回話題提示したのか、これではよくわからないですね。まあ、どうせ自己満の成れの果てだしいっか、といった具合で本論はここでおひらきです。

6.おわりに ~見方を変えれば結果は変わるよって話~

 いたずらもしなければおかしももらわずに霜月がやってきてしまいそうです。霜月といえば今秋待望の3期が放送されている某アニメの進展が思いだされますね。そんなことはどうでもいいんですが、また今回もいたずらに貴重な時間だけ浪費してちゃんちゃらおかしいのなんの状態です。とはいえ今回は他人からの評価を軸に文章を書き進めたのでこのようなまとめ方になりましたが、軸を自分の評価にしたとしたら本当に地獄のような記事になっていたことでしょう。すなっていたらおかしいとかでは済まなかったかもしれませんね。ドミネーターで処刑されていたかもしれません。とにもかくにも予想していたよりも愚かしさを露呈させずに済んだようでほっとしています。どうしても時間が余って仕方がないという時が万が一訪れるようでしたら、その時は匣を開けていろいろ書いてみたいものです。そんな日が来ないことを祈ってしっかりと勉強に励みたいと思います。もう学年が増えないというバグも懲り懲りですから。。。

 

2019年10月31日 加藤禎也