ぼくのあしあとを顧みるシリーズ

これまでの人生を振り返って、あれやこれや思うところを綴って参ります。

00 何故今更、応援団での活動を綴るのか?

~応援団を顧みるシリーズ Vol.0~

 

1.はじめに ~今回のテーマは「総括の意義と重要性」です~

 ちょうど7月上旬頃のことでしょうか。幾度も私の前に広がってきた修羅の風景を前に、ふと「卒団したらこの在団期間の全てを総括しなければならない」という考えが、私の脳裏をよぎったのでした。いくつかの寄稿文でも既に申し上げていることではありますが、私が数年籍を置かせて頂きました、この「東北大学学友会応援団」という団体はこれまでの自身の人生において最大の「学びの場」たり得ましたから、「総括」しないわけにはいかない、総括しておかないと勿体ない、と思ったわけです。そんな思い付きから早4ヶ月が経ち、いつの間にか季節を一つ、遠方の九州は伊都の地に忘れてきてしまいました。目の前に広がる風景は依然として代わり映えしないようではありますが、そろそろこの3年半に終止符を打ちたくなり、こうして筆を取る、もといキーボードを敲くに至ったのでした。

 すなわち私の脳内では「総括=作文」という、等号記号で結んでよいものかどうか非常に疑わしい思考回路ゆえ、これから何カ月間かにわたり、長文駄文を好きなように綴ることになったのであります。世間一般には「総括」というものは他人の存在を想定して行う場合が多いような気がしますが(報告書や顛末書に記載される総括が良い例でしょうか…)、あくまでこれは自分のために行うものでありますから、「総括の定義なんてどうでもよいのでは?」と思ったわけです。しかしながらいくら自己満足の成れの果てであるとはいえ、やはりそれを文章に起こすのであれば、それの実態と意義くらいはしっかりと把握しておくべきか、と思い直すに至ったのであります。

 こうして前置きが長くなりましたが、今回のテーマは「総括」です。まさか前置きだけで2度も「思ったわけで至った」と記す羽目になるとは思ってもみませんでしたが、このあたりは私の私たる所以のようなものですね。(所詮自己満足の成れの果てをしっかり体現していて悲しくなります。)このような経緯で今回は、私が東北大学学友会応援団でのすべてを総括する前に「総括の意義とその重要性」について軽く触れておきたいと思います。併せて、つい先ほど疑問符が付いたままになっていた「総括=作文」という構造についても若干の考察を加えさせて頂こうかと思います。

2.「言われているうちが花」の賛否が「総括」の意義を大きく変える

 唐突ですが、「言われているうちが花」とか「怒られているうちが花」という言葉、日本人の皆様であれば耳にしたことがあるかと思います。「言ってもらえているだけありがたいことだよ」的な、「怒る」という行為を擁護するニュアンスで時折使われますよね。このような考え方を聴くと、私は無条件に「日本的な考え方」だなぁと、ある種先入観に似た感情を覚えてしまいますが、どうやらこの「言われているうちが花」という考え方には日本(人)の中にも賛否両論あるようです。私はこの賛否が、今回のテーマである「総括」の意義を大きく左右すると考えています。本当に唐突な話題提示になってしまいましたが、「総括する」を語る上では外せない話題かなあ、と個人的に思っておりましたのでご容赦頂きたく…。

 若干話が先走ってしまいましたが、要は総括というのは、各々が各々の過去を、未来の自分の糧とすべく顧みることであるわけです。(少なくとも自分はそのように解釈しています。)あまり気持ちの良くないまどろっこしい書き方をしてしまいましたが、元の意味が「全体を俯瞰し、纏める」的な意味ですから、まあ大きく元の意味から外れているわけでもないかと存じます。すなわち、「反省すること」に対して大いに意義を感じる方にとっては、この「総括」という行為は非情に有意義に働き、大いなる効用をその人に与えることになるでしょう。対して、「反省すること」があまり好きではない方、性に合わない方にとってはあまり意味を為さない行為と化してしまうことになるわけです。これが冒頭で論じた「言われているうちが花」の賛否が「総括の意義」に大きく関係するといったことの詳細でございます。勘のいい方であればお気づきかもわかりませんが、結局本論を語る上で、「言われているうちが花」を必ずしも例として提示する必要はなかったわけなのですけれども、こういう人間それぞれの本質的な部分に触れてきそうな命題を持ってくると、何となく説明自体に鋭い説得力のようなものが付与されるような感じがして、冒頭に持ってきてしまいました。差し当たって「こういったシチュエーションにおける総括なんて、反省することを是とする人間あたりが意味を見出したがる」といったところが要旨になるのでしょうか。ひねくれた文章を書きすぎて自分でも話の落としどころを見失ってしまう始末でございます。 

3.結局、その人にとって重要な事にはそれ相応の意義がある

 こうして、肝心の「意義」の核心みたいな部分に触れずに一章分無駄に駄文と戯れてしまいました。前章でふわっと「総括の意義の存在」を示したのですが、先ほどから「総括」についてアホみたいに文章を綴っている私は前章における前者であるわけで、当然、「総括」することが自分にとって非常に重要で、有意義な行動であると考えているわけです。それが「なぜなのか」といえば、物事を振り返る過程で様々な気付きがあり、自分の人生においてそれが非常にためになり、とても面白いから、といえるでしょう。何がそんなに面白いのか、結局のところ「言われているうちが花を是としない人間」にとっては理解しがたいと思いますし、そういった点でこの理屈(というか本論のそれも核にあたる部分なのですけれども)を説明できないのはひとえに自身の説明力不足なのですが、一つだけ敢えて理由を挙げるとすれば、「振り返った時に色々な可能性や選択肢に出会えるそのこと自体が、自分の人生を豊かにしてくれているような感覚を私に与えてくれる」という点です。それが、私にとって大事であり、私にとって意義のある行為であるというわけです。そして、章題とは順序が逆になってしまいましたが、この意義の裏にはきちんと重要な点も含まれています。

 先程から言われているうちがなんとやら、と散々申し上げておりますが、結局それを「受動的に」是としている人間にとって、他人からの評価、指摘は非常に大切なものであるわけです。(能動的に、すなわち言う側がこの論理を振りかざしている現場には絶対に遭遇したくないものですが…)いわば「叱られて伸びるタイプ」とでも表現できるでしょうか、要はそういった回顧を軸に成長を行っている人間にとって、「総括」の重要性は計り知れない、という事ですね。言わずもがな、私自身がこのタイプであるという事なのですが…。さらに申し上げますと、私は、物事の全体を俯瞰してみるのが苦手な質でございまして、こうして脳裏に浮かんだ考えを書き出していかないとまともに総括をすることもできないという有様でございます。これが、冒頭で疑問符がついていた「総括=作文」という思考の回答であるわけなのです。正確には、あくまで作文は総括をするための一つの手段に過ぎないのですから、「総括→作文」とでも表現しておくのが適切かもわかりません。何はともあれ、結局は「私にとって総括することは非常に重要で意味のある事なんだよ!」という事を伝えたいがためにこのような駄文が綴られ、数時間の犠牲と共に私の愚かしさが露呈してしまったのでした。

4.おわりに ~結局はやりたいことだけをやっているだけですね~

 どうやってこの愚行(長文駄文)にけじめをつけたらよいでしょう。これまでも散々「けじめをつけなければならない」、「責任を取らなければならない」立場を経験してきましたが、未だに最良の責任の取り方というものはいつになっても分からないものです。だいたい責任なんてものは見方と考え方でその筋と方向性はすぐにメタモルフォーゼしてしまいますから無理もありません。また脱線してしまいましたが、こんな感じで私は東北大学学友会応援団を回顧し、自分の好きなように総括していこうと思っております。一切推敲せず、書きたいことを書きたいまま書きますから、本当に得体のしれない気持ちの悪い文章が生成されていくことでしょう。間結局は自己満足の活動の延長線上ではありますし、推敲することが本質ではないのでこれでいいや、と思うのが愚かしい私の思考でございます。そうしてそのような愚行の成れの果てが、目の間に広がる修羅の風景の一因なのだろうと、ぼんやり思案しつつ、今回はこのあたりで筆を置かせて頂きます。もしここまでご拝謁頂きました方がおりましたら、感謝の代わりに謝罪の意を申し上げておきたく存じます。

 2019年10月某日 加藤禎也