ぼくのあしあとを顧みるシリーズ

これまでの人生を振り返って、あれやこれや思うところを綴って参ります。

02 やって後悔、やらずに後悔。「やって後悔」に挑戦したわけ

~応援団を顧みるシリーズ vol.2~ 

1.はじめに ~誰しも、決断にはそれなりの覚悟が必要ですよね~

 最近、1限の授業に行く為に開けたドアの向こうから吹き込んでくる風が冷たく感じるようになりました。このような時候のそれを気取って書いてすぐに、これでは本原稿を書き出したのがいつ頃なのかばれてしまうので良くないなあ、と反省しました。目の間にあるテレビの液晶には男子バレー日本勢の勇姿が映し出されています。そんなわけで秋晴れの空が心に染みわたる今日この頃です。適当に冒頭での失態を濁そうとしましたが失敗してしまいましたね。

 さて、記念すべき(?)第一稿となる今回は、私が東北大学学友会応援団に入団するきっかけになった出来事について振り返っていきたいと思います。(と思っていたのですが、いつの間にかこの原稿は第3稿になっていました笑)

人間だれしも、新しいことを始める際にはそれなりの理由と覚悟が必要になってくるかと存じますが、理由はともかくとして覚悟とはどのようにして自分の中で確立されるのでしょうか。(理由については別にどうでもいいんです、どうせあんなもの、その辺の時代やら環境やらで勝手に生じてくるものですから、論じるまでもありませんね。)そう、今回はこの「覚悟」の要因となったあれこれにスポットライトを当ててそれらを振り返って考えてみたいわけです。数年経って改めて原点に立ち返ってみると、当時の自分の心情を主観と客観のちょうど間のような場所で視ることができるので非常に面白いものがあります。これは本人にだけ許されている特権のようなものでしょうか。ありがたく利用させて頂くとしましょう。

2.「やらずに後悔」を否とした先輩との出会い

 私が「東北大学学友会応援団」に初めて出会ったのは、本学の入学式でのことでした。最も、応援団は入学式のパフォーマーとしてステージに上がっていたわけですから、入学式にしっかり参加した真面目な大学生の大半がこのタイミングで当該団体と出会ったことでしょう。例にもれず、当時の私も真面目な大学生のうちの一人だったというわけです。しかしながらその「当時の私」にとって「応援団」とは単なる大学の一学生団体。さほど興味を覚えることなく、午後に予定されていた学部のオリエンテーション会場へと向かったのでした。強いていうのであれば「東北大学にも応援団があるんだな…」と、改めて「大学の応援団」の迫力を再確認したといったところでしょうか。それというのも、私は高校時代から委員会活動の一環として応援に携わっており、「大学にも応援団というものが存在している」ということと「大学の応援団はどうやら高校の応援団と違ってかなり本格的らしい」ということを知っていたのです。私の出身の岩手では規模に違いはあれど、ほぼ全ての高校に応援団が存在しており、学校によっては大学の応援団員を講師として招き指導して頂く機会があるほど「応援団」の存在は当たり前でした。

 さて、若干脱線してしまいましたがそんなわけで「学部のオリエンテーション会場に向くまでの私」にとって「応援団はただの学生団体」だったわけです。しかしここで私と当該団体を結びつける「ある先輩との出会い」が生じます。その先輩こそ「やらずに後悔」を否とし、東北大学学友会応援団で活動されてきたお方でした。何を隠そうこのお方、私の一つ上の学年の学生であり、私と出身高校が一緒、所属していたコース(理系一般的な授業のクラス分けのことですね)が一緒、所属していた部活動が一緒(卓球部でしたが、なんなら戦型まで同じ部類のもの)、所属していた委員会が一緒(つまり両者とも応援指導経験者)、進学した大学と学部まで一緒、というなんとも私との共通点がめちゃくちゃある先輩だったのです。私にとっては高校時代から非常に尊敬できる先輩だったわけです。このような先輩と、私は、入学式の会場から学部オリエンテーションの会場まで移動している道すがら偶然にも再開することになったのでした。驚いたことは言うまでもありません。その後学部オリエンテーションにも出番があった応援団に所属するその先輩は「是非見てくれよな」といった具合に挨拶をして先に目的地へと向かわれました。そうして、この後の学部オリエンテーションで見た「東北大学学友会応援団」は、もう私にとってただの学生団体ではなくなっていたのでした。ただ漠然とめちゃくちゃにかっこいいと思いました。もちろんパフォーマンスそのものがかっこいい事は言うまでもありませんが、やはり私の尊敬している先輩が出演している団体の、その演舞が最高にかっこいいと思ったのでした。

 その後、様々な成り行きを経て(尺を考慮して割愛します)、私はその先輩に「何故応援団に入ったのか」聴いてみたのです。するとその先輩はこうおっしゃいました。

「高校時代の応援活動が中途半端だったから、大学でもう一度、自分の納得がいくように応援活動をやり直したくて」

と。そういえばこの先輩は、クラスメイトとのじゃんけんに負けて仕方なく応援委員会に入った自分と違って、小学校の運動会から応援団をやっている「応援に対して熱意をもっている」方だったという事を思い出しました。そしてその質問の流れからそのまま、「応援団気になるなら遊びにきなよ」と、応援団の新歓(新入生を歓迎しつつ部活勧誘をする行事のこと)に誘って下さったのでした。

 そうは言っても、この時点で私の中に応援団に入ろうという気持ちはほとんどありませんでした。だってどう考えても大変じゃないですか。可視的な目標もなければ報酬も存在しない、自己犠牲の精神が重んじられ(少なくとも当時の私はそう思っていました)、上下関係も厳しくて、放課後から休日まで身体は拘束されるし、お金もアホみたいにかかる。フラットに考えたらよっぽど強い希望がなければこのような団体に入団することは出来ないと思います。冒頭で述べた「覚悟」を引き合いに出すとすれば「覚悟するための代償が大きすぎる」のです。しかしそれでも、「やらないで後悔するのはあり得ない」という先輩の姿にはひどくあこがれていた、それに近い感情を覚えていたと思います。

3.「やって後悔」を是とした同期との出会い

 そんなわけで4月は中旬、私は応援団の新歓に初めて参加しました。いとも簡単に落とされました。「うわ、応援団やってみてぇ」と素直に思いました。これについても書こうと思えばいくらでも書けてしまうので、結論から申し上げますと「雰囲気が良いから居心地がいい、会話のチャンネルが多くてその上波長が合うから面白い、やる時はやる、メリハリとかいうレベルではなく、演舞の時の応援団はまるで別の団体、この点めちゃくちゃ推せる、演舞内容が非常にアガる、自分好み」…こんなところでしょうか。もともと「何か一つのものに集団で力を合わせて取り組むこと」が好きだったり、持ち前の協調性(主体性の対義語、流されやすいをオブラートに包んだ言い方)なども相まったりで、完全に心は応援団に奪われてしまいました。今思えば、人の心を奪うことを得手としている応援団を相手にして、その場の雰囲気に流されやすい私がこうなることはもはや自然の摂理だったのですが、当時の私は何が何だかさっぱりわからないまま、いわば応援団の虜となってしまったのでした。

 …そうは言いつつもやはり入団を即決できるほど私も肝が据わっておりませんでした。前章の終盤でアホみたいに応援団をネガりましたが、やはりこの入部の敷居が馬鹿高い団体、この団体に入るためにはそれ相応の覚悟が必要というものです。カモがネギを背負ってきたかの如くいとも簡単に虜となった私でも、入団の決断をするには非常に迷ったものです。そうこうしているうちに、私は当該団体との架け橋となる二人目の団員と出会うことになります。それが「やって後悔」を是とする、既に入部を決めた同期でした。彼は入部を悩む私を見るや否や「やらないで後悔するくらいならやって後悔した方がいいよー」と、馬鹿みたいに軽快なノリで話してきたのでした。(最も後から本人に聴いたところ、本当にただの軽いノリだったらしいのですが…。)しかし主体性皆無の私にとってこの言葉は綺麗にぶっ刺さったわけです。当時「やらずに後悔」は嫌だと自身を応援の世界に再び投じた先輩の決断に心を打たれていたこともあり、「やらずに後悔よりやって後悔やろ」と入部する覚悟を決めたのでした。

 このようにして私は「やって後悔」の被検体となり、ここまで3年半、応援団と共に時間を駆け抜けてきました。その結果たるや如何に…。まあ個人的には、件の先輩が悔いなく応援団生活に終止符を打ったのか、件の同期がやる選択をしたことを悔いていないのか、そのあたりが気になるところです。まあ結局それも各々個々人が自身を総括する過程で生じてくる結果であるので、他人がとやかく言う筋合いではないのですが。

4.おわりに ~相応の覚悟のもとに築かれた決断に後悔は存在し得ない?~

 実験の結果を発表する時がやって参りました。1章を書いている頃にはバレーがテレビに映っていましたが、今は毎年恒例プロ野球のドラフト会議が流れております。ドラフト会議といえば指名制ですが、指名する決断をする側、指名される決断をした側双方に、どこかの段階で「後悔する」タイミングは訪れるのでしょうか。まあこれも結局個々人の問題なので一概に結論を申し上げることはできないかと思いますが、私の場合は「やる決断」をしたこと自体には不思議と後悔の念はありませんでした。これだけ4k字分も遊んでおいて、結果がこれっぽっちとはあっけないものです。応援団生活を通して後悔したことは星の数ほどありますが(いずれどこかで触ることになるでしょう)、結局そこの原点の部分には悔いはないということです。やっぱり馬鹿なんでしょうね、多分。ただやはり、決断をするにはそれ相応の覚悟が必要なわけで(原点回帰)、やはりそれだけの覚悟を決めて行った決断にはどんな結果がついてきても、決断そのものには後悔しないのだろうと、今回の経験をもって考えさせられました。きっとこの経験が何かしらの形で今後の人生に生きていくことでしょう。本質情報をピックアップして言い換えると、この経験はどうやら私が生かさなければ何かしら成果への昇華は見込めなさそうなので、結局自身のその場その場の「決断」にこの経験の価値の有無は依存するわけですね。これからも(これからは?)後悔のない決断ができるように、しっかりと覚悟を決めて決断していきたいものです。

 

2019年10月某日 加藤禎也